今から約350年前、江戸に飲料水を供給するために開削された玉川上水は、多摩川の羽村堰(現羽村市)から四谷大木戸(現新宿区四谷四丁目)まで武蔵野台地を東西に貫き、全長43kmに達していました。当初両岸には松や杉が植えられていましたが、元文〜寛保年間(1736〜1744)八代将軍徳川吉宗の頃、幕府の命を受けた武蔵野新田世話役の川崎平右衛門定孝が、小金井橋を中心とする上下流6kmに桜を植えました。苗は奈良の吉野や常陸の桜川など古来より名高い山桜の名所から取り寄せたといわれます。植樹は貧しい新田農村のための「村おこし策」だったと考えられ、これがやがて「小金井の桜」として全国的な桜の名所となる始まりでした。
植樹からそよそ50年後に川崎平右衛門の思いが実を結びます。寛政年間(1789〜1801)から小金井の桜の噂が次第に江戸に広まり、文化〜天保年間(1804〜1844)には太田南畝や佐藤一斉など著名な文人墨客が訪れて詩歌に詠い、紀行文を著します。さらに歌川広重の錦絵にも描かれて、江戸近郊の桜の名所として広く知られていきました。
富士を背景に武蔵野に流れる玉川上水の清流、広大な武蔵野の台地にたなびく雲のように続く山桜の並木は多くの文人を魅了し、特に小金井橋から眺める風景は、「金橋桜花」「小金井橋桜花」「小金井桜」と呼ばれ親しまれました。小金井の桜並木は嘉永・安政年間(1848〜1859)の大規模な補植により、千本桜と呼ぶにふさわしい姿となりました。
幕末の動乱期を経て、明治22年(1889)に甲武鉄道(現JR中央線)が開通しました。当時、武蔵境と国分寺に停車場が置かれ、花見時期には鉄道会社は割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して日曜日には数千人もの行楽客が訪れました。
玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済はおおいに潤いました。やがて、甲武鉄道は国有化され、大正15年(1926)に武蔵小金井駅が誕生しました。
明治末から大正にかけ、東京帝国大学教授の三好 学博士が小金井桜の調査・研究を行い、60数種におよぶ天然変種を発見し、日本有数のヤマザクラの一大集積地であることを明らかにしました。また、地元では大正3年(1914)に小金井・小平・武蔵野・保谷の4村有志が「小金井保桜会」を結成し、管理団体の東京市と一体となって地道な保護活動を続けました。
こうした努力が実を結び、大正13年(1924)に現小平市の小川水衛所跡付近(商大橋の上流)から武蔵野市の境橋までの両岸約6kmが国の名勝に指定されました。
戦後は昭和27年(1952)に上水堤に桜祭りが復活しますが、並木の衰えは著しく、三好博士が命名した富士見桜や日の出桜といった多くの名木が既に失われていました。昭和40年代に入ると、小平監視所下流の玉川上水の通水が停止され、水路や桜並木の荒廃が始まり、わずか20数年でケヤキなどの雑木が繁茂して雑然とした景観に変わり果てました。
昭和61年(1986)に下水処理水の放流により上水の崩壊はかろうじて免れましたが、生育環境の悪化によりサクラの枯死が促進されています。
平成4年度に東京都教育委員会が現況調査を実施し、名勝の指定区域に1,112本のサクラを確認しましたが、その数は毎年減少し消滅の危機に瀕しているといっても過言ではありません。玉川上水は平成15年8月に国の史蹟に指定され、名勝小金井(サクラ)と一体のものとして保護対策が求められています。名勝小金井(サクラ)にふさわしい景観を再生し、歴史的文化遺産として後世に伝えていくことが現代に生きる私たちの責務ではないでしょうか。
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